ドウカンヤシマ(欧字名:Dokan Yashima、1980年3月24日 - 不明)は、日本の競走馬、種牡馬。
6年連続重賞勝利という日本中央競馬会最多記録を樹立し、「忘れたころにやってくる」「年に一度のドウカンヤシマ」と形容された。また1984年の金杯(東)、1987年の金杯(西)を優勝しており、史上初めて金杯東西制覇を果たした。その他、重賞4勝を挙げている。
経歴
デビューまで
ドウカンミキは、1969年に茨城県稲敷郡江戸崎町の栗山博牧場で生産された牝馬で、父はパーソロンであった。新井操が所有して競走馬としてデビューし、6戦1勝の成績を残した。引退後は、仔分け方式で繁殖牝馬となった。初仔は、北海道幕別町で生産しているが、それ以降は、北海道新冠町に移動している。
1979年の種付けにて、新井は小柄なドウカンミキを補うような体の大きな種牡馬を求め、相手にタケシバオーを選択。1980年3月24日、新冠町の細川農場で鹿毛の牡の仔、ドウカンミキの6番仔(後のドウカンヤシマ)が誕生した。仔は、小柄だったが、張りのある動きであった。尻の両側につむじを持つ馬で、素直な気性であった。農場の細川功一は「(前略)当歳時から幅があり、ひょっとしたらという感じがありました。」と農場時代を振り返っている。
新井は、太田道灌の末裔で、道灌から数えて16代目であった。太田道灌にちなみ「ドウカン」の冠名を使用しており、仔には、冠名に「ヤシマ」を組み合わせた「ドウカンヤシマ」という競走馬名が与えられた。美浦トレーニングセンターの田中朋次郎厩舎に入厩する。
競走馬時代
3-4歳(1982-83年)
1982年9月4日、函館競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に1番人気の支持でデビュー。直線で抜け出し、後方に7馬身差をつけて初勝利となった。条件戦も制して連勝とし、府中3歳ステークスでは1番人気に推されながら4着と初めて敗戦した。
11月7日、京成杯3歳ステークスでは重賞優勝馬を抑えて1番人気に支持された。ハイペースの展開の中、好位に位置。直線で抜け出そうとするも、好位または後方から追い上げてきた3頭と横並びとなった。特に、内から伸びたデアリングパワーとは馬体を併せて決勝線を通過した。写真判定の結果、ドウカンヤシマの先着が認められ重賞初勝利となった。騎乗した郷原洋行は「あの位置なら、直線もっと伸びなきゃいけない。勝ったけど納得しないよ」と回顧している。それから朝日杯3歳ステークスに臨み、11着に敗れた。
1983年、2月13日の共同通信杯4歳ステークスで始動するも、13着敗退。その後は、クラシック路線を歩む予定であったが、スプリングステークスの発馬機で暴れて鼻出血を発症し、競走除外。出走停止処分を受け、皐月賞、東京優駿(日本ダービー)への出走は叶わなかった。
出走停止明け3連敗の後、8月21日の函館記念に大塚栄三郎が騎乗し、負担重量51キログラムで出走。皐月賞優勝のハワイアンイメージ、桜花賞優勝のブロケード、リーゼングロスら相手に逃げ、一時2番手に6馬身差をつけるなど独走した。直線に入っても先頭を保ち、追い上げてくる後方勢に2馬身半差をつけて先頭で入線、重賞2勝目を挙げた。13頭立て11番人気の支持を受けており、単勝式2060円、枠番連勝5770円の高配当を記録した。秋は、セントライト記念、京都新聞杯と連続3着を記録し、菊花賞ではクラシック出走を果たしたが、悪い癖が出ていつもの力を発揮できず、17着に敗れた。年末には、オープン競走に出走するも10着に敗退した。
5-7歳(1984-86年)
1984年初めの金杯(東)で始動、菊花賞で見られた悪癖矯正を大塚と厩務員の下川原で取り組み、5番人気で出走した。好位に位置し、直線で先行勢をかわすと、独走態勢となり、後方に3馬身差をつけて重賞3勝目となった。大塚は第3コーナーの時点で勝利を確信していた。以後6戦したが、京王杯スプリングカップ2着が目立つほどで勝利を挙げることができなかった。
1985年も金杯(東)で始動、連覇を狙ったものの14着となり、4戦続けて二桁着順に敗退した。続いて東京新聞杯(GIII)に、15頭中10番人気の支持で出走、負担重量はメンバー中最も大きかった。2番手に位置し、直線で内側から抜け出した。後方から迫ったダスゲニーを半馬身振り切り重賞4勝目となった。大塚は「(前略)でも正直いってまさか勝てるとはねえ」と述懐している。1969年にタケシバオーも制していることから、東京新聞杯父仔制覇を達成した。単勝式は4050円、枠番連勝式は8350円の高配当となった。その後、中山記念2着と好走するなど4戦したが、いずれも勝利することはできなかった。
1986年も同様に金杯(東)で始動したが8着敗退。以降春は4回出走するも安田記念4着が最高であった。田中は苦戦する平地競走に見切りをつけようと、障害競走の練習を開始するほどであった。夏は函館競馬場に身を置き、巴賞4着、函館記念3着となるなど、好走した。その後は、勝利目指して比較的メンバーの揃わない関西に移籍し、栗東トレーニングセンターの鹿戸明厩舎に転厩した。
転厩初戦、9月14日の朝日チャレンジカップ(GIII)に出走。逃げて後方から追い上げるライフタテヤマをクビ差退け、重賞5勝目を挙げた。美浦所属の大塚から、乗り替わった栗東所属の清水英次は、「(前略)なんとか粘り切ったが凄い馬だね」と振り返っている。その後は関東の天皇賞(秋)や、福島競馬場の福島記念に出走したが、いずれも勝利することはできなかった。
8歳(1987年)
1987年は、金杯(西)(GIII)で始動、負担重量はメンバー中最も大きい58.5キログラムであり、6番人気であった。スタートから逃げて平均ペースを刻み、直線で後方からの追い上げなく、1馬身4分の1差で逃げ切り重賞6勝目となった。3歳時の京成杯3歳ステークスから6年連続重賞勝利となり、それまでスピードシンボリが保持していた5年連続重賞勝利を上回る史上最長記録となった。さらに、東西の金杯を両方勝利したことも史上初であった。清水は「展開に恵まれたね。距離もぴったりだし、いい感じで逃げた時は馬自身も気持ちよさそうだ。勝つべくして勝った感じです」と述懐している。その後は、球節の状態が好ましくないことから放牧に出された。復帰は秋となり、マイルチャンピオンシップ、愛知杯と連戦したが、馬体重の減少していたこともあり、どちらも二桁着順に敗れた。
馬体重を戻して、7年連続重賞勝利記録に挑戦させる計画もあったが、種牡馬としての期待もあったことから競走馬を引退。1988年1月11日に京都競馬場にて、金杯(西)優勝時のゼッケン「9」を着用し、清水が騎乗した上で引退式が行われた。
種牡馬時代
1988年1月、北海道新冠町高江の新冠町畜産センターで種牡馬となった。102頭の産駒を残し、キンコーバトラが荒尾競馬場のサラブレッド大賞典など地方重賞4勝を挙げている。1995年に用途変更された。
競走成績
以下の内容は、netkeiba.comおよびJBISサーチの情報に基づく。
- レース名太字は、八大競走を表す。1984年よりグレード制導入。
特徴・評価
生涯成績8勝のうち3歳時の条件戦2戦を除いた6勝は、現役期間の3歳から8歳まで、各年1勝ずつ異なる重賞で記録されたものであった。4歳以降の現役期間は、出走回数の多少に関わらず例外なく年1勝のみにとどまっていたことから「年に一度のドウカンヤシマ」・「忘れたころにやってくる」と形容された。なおこの重賞6勝のうち同じ競馬場での重賞は、2競走1組(京成杯3歳ステークス・東京新聞杯)のみであり、5つの競馬場(函館・中山・東京・京都・阪神)で重賞制覇を達成している。
新井は「なんといってもドウカンヤシマが一番思い出に残る馬ですよ」ととしている。人気薄での重賞制覇が多かったことから、市丸博司は「重馬場専用というわけでもなく、軽ハンデでしか来ないわけでもなく、全く馬券の買いようがない」。細川は「買ってもなかなか当たらないし、かといって買わなきゃ絶対当たらない。まるで宝クジみたいな馬でしたね〔ママ〕」としている。
血統表
半姉ドウカンスピンの仔に1986年のスプリンターズステークス(GIII)優勝馬ドウカンテスコ。
ほか祖母ナイガイスターの半妹キラクハートの子孫に、エプソムカップ優勝馬サマンサトウショウ、GI競走3勝のスイープトウショウなどがいる。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 市丸博司『サラブレッド怪物伝説』 廣済堂文庫 p.186-187「ファンを裏切り続けて6年連続重賞勝利-ドウカンヤシマ」
- よしだみほ『私設現代名馬館』 ぶんか社 p.221-226「勤続6年、毎年重賞勝利を続けた馬-ドウカンヤシマ」
- 『優駿』(日本中央競馬会)
- 1988年2月号
- 「【今月のトピックス】6年連続重賞制覇、"大珍記録"を残し、ドウカンヤシマ引退」
- 1992年3月号
- 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 70】一年一度。六年連続重賞制覇 ドウカンヤシマ」
- 1988年2月号
外部リンク
- 競走馬成績と情報 netkeiba、スポーツナビ、JBISサーチ



